350年の技巧 上質、丈夫な和紙

常陸大宮市の旧山方町、JR水郡線山方宿駅から北方に約1.5キロの久慈川東側の位置にある西野内地区。ここが、江戸時代から350年の歴史を持つ和紙「西ノ内和紙」の発祥の地だ。
この地で製紙が盛んとなった所以は、和紙の原料となる楮と紙漉きに必要な清水の両方があることが上げられる。自然豊かな同地区では、水はけの良い傾斜地の土留め用に那須楮が古くから植樹されていた。旧山方町は寒暖の差が厳しく、楮の生育に適した積雪が少ない地域の北限。そして水戸藩第二代藩主、水戸黄門こと徳川光圀公が、この楮の植樹を奨励し、今では日本の楮の三大産地の一つに数えられている。その繊維は長さが短く、きめが細かい。まるで絹の糸のような楮は、現在も日本一の品質と名高く、キロ当たりの価格も国内で最高値が付けられ、全国有数の和紙の生産地でも使用されている逸品だ。そして楮の収穫や紙漉きの下準備をする冬の時期は農閑期と重なり、久慈川、諸沢川の非常に澄んだ水を利用できることも要因の一つとされている。加えて、光圀公が西ノ内和紙と命名し、水戸藩の専売品として生産にも注力した事も大きい。江戸時代の二大史書である「大日本史」は、この和紙が使われている。
西ノ内和紙は、強靱で虫もつかないため保存に適しており、水につけても破れにくく、墨で書いた文字もほとんど滲まない。そのため、江戸の商人達がこぞって大福帳として愛用し、火事の際には井戸へ投げ入れて焼失を防いでいた程だ。また、障子、唐傘、提灯、藩の御用紙、まゆ袋、布の代わりに着物として、明治時代には初の衆議院議員選挙の投票用紙、戦時中は風船爆弾など軍事用にも大量に使用された。「西ノ内」は、和紙の全国共通の規格である縦一尺一寸、横一尺六寸を指す言葉となり、これを半分にしたものが書道でよく使われる半紙の大きさとなっている。それもこの和紙を雄弁に物語るエピソードの一つだ。日本、茨城の歴史と深く関わってきた西ノ内和紙。現在、国と茨城県の無形文化財に指定されている。
市内には、この和紙を伝承する2軒の工房がある。その一つが、楮の栽培から製造、販売まで手掛ける「紙のさと」だ。
「手作りの和紙では、紙一枚でお客さんが私の事を知り、そして判断する。緊張感、責任感のある仕事です。しかし、幼い頃からものづくりが大好きでしたので、この伝統工芸に携わる事に誇りを感じていますよ」と4代目紙漉き職人の菊池大輔さん。
楮は手塩にかけなければ、皮に傷なく、太く長い幹が育たない。4月頃に肥料をまき、6月頭に最初の芽掻きをする。7~10月は、早朝4時から市内に点在する楮の畑で、ひたすら害虫駆除、草刈、芽掻きや脇芽取り。そうすることで、2月には、約3mに伸びた楮を収穫できる。その後は「楮むき」、「表皮とり」、「あく抜き」「ちり取り」「楮たたき」など様々な工程を経て、ようやく紙漉きの作業となる。「紙漉きの作業は、和紙を作る工程のほんの一部分。それまでの準備が重要」。こうした地道な作業により、3世紀以上に渡って受け継がれた伝統の技巧は守られている。

工房では久慈川の支流である関沢川の清流を使用。新鮮な水に楮を一昼夜漬けて柔らかくする

水で溶いた楮にトロロアオイを混ぜた紙料液を簀桁(すけた)で漉く。同液の分量は職人の勘頼り

漉き簀は裏表を交互に使う。そうすることで、目詰まりせず、連続して均一な厚さの和紙が漉ける

漉きあげた紙は圧しをかけ脱水する。そして一枚ずつ板に貼り付けて乾燥の準備をする

椿の葉や刷毛でキレイに表面を整えた後に、天日干しやステンレス製の乾燥機で乾かして完成

菊池 大輔 [きくち だいすけ]

紙のさと4代目紙漉き職人。
茨城県常陸大宮市在住。
デザイン系の専門学校を卒業後、イベント関連会社に就職。
脱サラ後、約17年前から家業を継ぎ、新たな和紙の可能性を発信している。